せららばあどの随想録

エンターテインメントを哲学する

ラーメン二郎吉祥寺店のせいで新しい店に行けなくなった話

ラーメン二郎といえば、その見た目のインパクトのほかに、「呪文」と呼ばれる独特の注文方法も有名だ。

いくつかの店舗に行ったが、この呪文はおおよそ、ラーメン二郎での共通言語として通用している。

しかし、私が知るなかでは、今はなき吉祥寺店は、呪文こそ通用するものの、注文の仕方がもっとも難解であり、はじめての人がノーミスで注文することは不可能であった。

 

簡単に説明すると、店主が「たのんでない人いいよ」といったら、サイズの「大」か「小」だけを伝える。

その後、「たのんだ人いいよ」といわれたら、手前の座席から順に、事前に頼んだサイズに加え、チャーシューのサイズと、例の呪文を言うという流れなのだが、

誰が既に頼んで誰がまだなのか、頼んだ人のなかで自分は何番目なのかというのを、客が理解する必要がある。つまり、全員が場の状態を把握しなければならないのだ。

 

そして、店主は見た目が怖い。しゃべりもぶっきらぼうで怖い。

隣にいる小さい老婆も攻撃魔法とか使えそうだ。

(ただし店主も他の店員もみんなやさしくて、怒ることはないと、後にわかる)

ラーメン作りは店主1人で行うため、2時間待ちは当たり前で、行列のなかやっと店内に入れても、この状況把握という緊張状態を強いられる。

 

そして、何も知らない初心者が「こぶたラーメン1つ」と言うと、

店全体がキーンと静まり返る。店のリズムを壊す闖入者に、みなが会話を止める。

誰も注意はしない。だって知らないから仕方がない。

店主が間をおいて、独り言のように「小ね…」と修正する。

 

最悪の場合、初心者は自分が頼む前に「たのんだ人いいよ」の流れに乗ってしまい、

呪文を唱えてラーメンにありつくのだが、これは自分より前の人のを横取りすることになってしまう。

これはすごくキーンとなる。

取り返しのつかない場合があるし、サイズの問題で2人以上に迷惑をかけることもある。

 

このキーンを、多感な学生時代に何度も(キーンをつくる一員として)傍観してきた。あまりにも複雑すぎるオペレーションと、キーンという静寂の反響。

すっかり恐怖を植え付けられた。ああはなりたくないと、心から願った。

 

こうして、私は、知らない店に入ることができなくなった。

念のため、キーンとなったからといって、トラブルは起きないし、店主もやさしく対応してくれたということは言っておきたい。

知らないところで注文を失敗することは悪いことではないし、特に吉祥寺店では必然ですらある。

なのに、キーンが怖くてできない。

和を乱すことへの恐れ、失敗することへの恐れ、知らないことへの恐れ。

複雑なオペレーションの讃岐うどんの店に、言葉もわからずに入ってくる外国人を見ていると、自分の恐れが、いかに日本人的かを思い知らされる。

複雑さを恐れてラーメン二郎吉祥寺店に行けなかったという人がいたら、それは絶対にもったいないことだ(ちなみに、現在は同じ場所あるラーメン店で再現度の高いものが味わえる。しかも食券で!)。

 

失敗したっていいじゃないか。誠意さえあれば、きっと大丈夫。

そろそろこの呪縛を解き放とうと思った。そんな決意の話。