せららばあどの随想録

エンターテインメントを哲学する

「芸人にあって役者にないもの」 小林賢太郎作 舞台『カジャラ第四回公演』レポート

 

 

「コント集団カジャラ 第四回公演 怪獣たちの宴」

 

作・演出:小林賢太郎

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暗がりの中、杖をつく老人らしきシルエットが現れる。

そのシルエットは次第に杖を、巧みに、いや滑稽に操り、コント再開前にすでに笑いを生む。

マイムのクオリティからして、それは小林賢太郎だと思う。

しかし、明転すると、その老人はなだぎ武だった。第四回公演の特徴的な瞬間。

 

いままでカジャラでは、ラーメンズの相方である片桐仁を除いて、テレビの最前線で活躍した経験のある芸人が登場することはなかった。

そこにきて今回、なだぎ武がメンバーに入っていることに驚いた。

まさか大阪公演の客寄せではないだろうから、関西色の強い芸人さんを呼ぶことの違和感もあった。

 

カジャラの演者の多くは役者である。

うまく言語化できないのだが、コントにおいて、役者と芸人には違いがある。

演技という嘘があるから?

いや、コントも演技であって、漫才とは違い、素で話しているわけではない。

漫才だって一方は台本を読んでいるのだから素ではない。

・・・わからない。

でも、笑いの強さという決定的な違いがあるのは事実。

もしかしたら自分だけかもしれないけど。。。

 

といっても役者がコントをやることを否定するわけではない。

それが良い方に動くこともある。その最たる例がこのカジャラなのである。

小林賢太郎という、肩書き不明な人間の作品世界をつくるには、

やはり役者主体で、ついでにTVではなく舞台であるのがいい。

 

そこにきての、なだぎ武である。

そして冒頭の老人のシーン。

やはり実力のある芸人さんである。

声も通るし、言われてみれば動きだけで笑いがとれる人でもある。

アドリブらしきところも多々あったし。ことごとくウケていた。

そして、

舞台上のなだぎ武は、小林賢太郎と対等だった。

小林賢太郎の世界観を崩すことなく、一人で圧倒的な笑いをつくれる、小林賢太郎以外の存在。

小林賢太郎を食ってしまうかもしれない勢いさえある。

いままでにない緊張感。

デュランを思わせるキャラに真っ向から応じる小林賢太郎も、実に楽しそうだった。

 

そうか、何かをしでかすかもしれないという緊張感。

これは芸人にあって役者にはないのかもしれない。

役者のアドリブにはない、破壊への期待

別に実際は破壊しないんだけど、期待があるだけでおもしろくなる。

 

今回はそういう意味でも、笑いが多めのコントだった。

前回の石川啄木のように、純粋な演劇っぽいものはなかった。

それでも小林賢太郎のコントには、やはり考えさせるものがある。

対象を笑いで包むのではなく、対象それ自体をおもしろくする技術は、

私にとって理想なのである。

 

#カジャラ#小林賢太郎#なたぎ武