せららばあどの随想録

エンターテインメントを哲学する

お笑い賞レースの矛盾と功罪 ー笑いのSDGs対策ー

f:id:nouvermensch:20220408120841j:plain


お見送り芸人しんいち(敬称略、以下同様)が優勝した2022年のR-1グランプリについて、松本人志は、今年の審査員(陣内智則バカリズム小籔千豊野田クリスタルハリウッドザコシショウ)はみな現役世代なので、自分と同じタイプの芸には投票しない傾向になり、結果的にどの審査員とも重ならない「歌ネタ」が評価されやすかったのではないか、と評している。

現役世代とレジェンド世代の微妙な心理を実感しているからこその分析なのだろう。

松本人志は、優勝者や審査員、大会方式に文句を言っているわけではない。ただの分析であって、結果は尊重している。

お笑い賞レースについて、これまで多くの議論がされてきたし、いまだに各大会も変化を続けている。

今回はお笑い賞レースを楽しむためにあらかじめ理解しておくべき、笑いを審査することの矛盾や功罪を、私なりに整理しておこうと思う。

おそらく大会を重ねるごとに新しい気づきが生まれるので、この記事は適宜更新していくことを前提とする。

また、ここでいうお笑い賞レースは主にM-1、R-1、キングオブコント、The Wを想定している。

 

 

1 そもそもなぜお笑いで賞レースをやる必要があるのか?

1−1 おもしろさに順位などつけられない

陸上競技や球技などのスポーツとは違って、笑いの勝敗は明確ではない。

スポーツにもボクシングの判定やフィギュアスケートの芸術点などはあるが、そこには手数や姿勢、高さなど、ある程度の客観的な基準がある。

それに対して笑いは、「おもしろさ」という感覚的な基準が重視される。

もちろん、笑いにも、手数や設定、間など、客観的に評価できる要素もあるが、「うまさ」は「おもしろさ」とは同じではない。

身長160cmの選手と180cmの選手のトリプルアクセルは同じ技術点だが、迫力は違う。「おもしろさ」はいわばこの迫力も評価に含むのだ。

そして、何をおもしろいと思うかは人によって違うし、後述するように同じ人でもおもしろさの評価は不安定になる。

はっきりいって、おもしろさという主観的な感覚を基準にする限り、公平な審査などありえない。

だとしたら、勝敗や点数を決める賞レースなどやるべきではないのではないか?

 

1-2 笑いの多様性を排除している

「漫才日本一を決める」と謳ったところで、芸歴15年以上の漫才師の方がおもしろいのではないか。

それに、漫才は漫才でもM-1は4分漫才である。寄席などの舞台でやるネタはもっと長いのが通常である。

15分のネタでこそ輝く芸人もいれば、1分のショートコント、3秒のギャグを得意とする芸人もいる。残念ながらそのような芸人は賞レースで優勝することは難しい。

5分のコント、4分の漫才、3分のピン芸というのは、テレビサイズのネタ尺である。主要賞レース決勝はTV番組であり、基本的に賞レースはテレビに適応できる芸を優先している。

漫才、コント、ピン、女性といったゆるやかな縛りの影で、ネタ時間や芸歴制限といった規定が、多様な笑いの侵入を排除している。

では規制を緩和して多様性を確保するればいいのかというと、それはそれで審査がますます混迷を深め、個人の好みの要素が強くなる。比較的規制の少ないThe Wはその傾向が強い。

 

15分のネタを2分にして1・2回戦で敗退する芸人は、はたして実力のない芸人なのだろうか。賞レースのもつ意義があまりにも大きくなってしまうと、その独自の大会方式に適応できない芸人が実力以上に低く評価されたり、活躍の場を奪われる事態が生じる。これもまた、賞レースが生んだ影の部分である。

賞レースで観るネタは笑いのなかでも限られたジャンルであるということを自覚しなければいけない。

ショートネタなら動画投稿でスターになる可能性はあるが、長尺ネタを得意とする芸人には特に厳しい時代である。

 

1−3 スターをつくるショー

おもしろさを数値化することの問題は、誰よりも当事者である芸人がわかっているはずだ。

にもかかわらず、笑いに順位をつけることは古くから行われている。なぜか?

「おもしろい」を基準にした賞レースをやる意味は、それがおもしろいからだ。

M-1を頂点に、お笑い賞レースは人気のコンテンツである。オリンピックやワールドカップと同様、真剣に努力してきた者同士の戦いは観ていておもしろい。

もちろん芸人は賞レース以外でも真剣なのだが、観る側も真剣になるという点が重要である。しかも笑いに専門知識は必要ない。

このショーの大きな特徴は、感動だけでなく、笑いがあるということだ。笑いながら感動する、真剣勝負なのに笑えるというのは、かなり高次元の娯楽である。

 

制作側の立場からすれば、娯楽としての価値がなければTVでの大規模な賞レースは開催されないだろう。

そして価値を上げるためには規模を拡大することが望ましい。規模が大きいほど、レベルも高く、影響力も強くなるので、賞レースは祭りのような演出になる。

賞レース自体の人気のみならず、毎年確実にスターをつくれるという利点もある。新チャンピオンを呼んで恒例企画をするだけでも番組は成立する。実力もあるのだから失敗する可能性も低い。TVのみならず、営業やライブでも「王者」や「ファイナリスト」という肩書きは集客につながる。

 

1−4 笑いの新陳代謝

芸人にとっても、賞レースのもつ意味は大きい。多くの若手芸人にとって、賞レースは最優先の目標である。

賞レースをきっかけにスターダムにのし上がっていくという明確なモデルが確立したことで、芸人を志す者も増え、競争率も高くなり、全体のレベルが上がっていく。

新しいシステムが開発されれば、翌年には多くの芸人がそれを取り入れている。賞レースは確実に笑いを進化させた。

一方で島田紳助は、M-1が芸人に辞めるきっかけを与えるとも語っていたそうだ。

おもしろさが数値化できないということは、笑いが取れず人気もない芸人でも、なんらかの言い訳を使えば自分がおもしろいと思い込めるということでもある。

しかし、賞レースには明確な勝敗が、すなわち優劣がある。激しい競争の中で、敗退の現実を突きつけられたとき、芸歴制限によって挑戦権を失ったとき、やはり引退を考えるだろう。実際に芸人として生活できる人間はごく一部であり、芸人を辞めることで、人間として幸せを掴むチャンスはむしろ増えるかもしれない。

賞レースは競争によって笑いのレベルを向上させつつ、辞めるに辞められない芸人たちの背中を押すことで、芸人や社会の新陳代謝を促しているのだ。

 

 

2 審査のジレンマ

人それぞれであるはずの「おもしろさ」に順位をつけることの矛盾に対して、大会運営側は、可能な限り視聴者や芸人の違和感や不信感をなくす努力をしなければならない。

そのうえで重要なのは、どのように審査するかと、誰を審査員にするかである。この点にも賞レースが抱えるジレンマが如実に現れている。

これについては様々な議論があり、大会形式もいまなお変更を続けている。いくつか議論をまとめてみよう。

 

2-1 審査方法のジレンマ

 2-1-1 ネタ順のジレンマ

ネタ順が審査に影響することは、いまさら説明する必要もない。特にトップバッターが圧倒的に不利であることは明確である。この話をすると中川家の例が反証としてよく出てくるが、逆に言えば、第1回のM-1以来、主要賞レースでトップバッターの優勝がないということでもある。

偶然で決定されるネタ順が結果に影響することは、審査が客観性を欠くことの証拠である。トップバッターになったら優勝を諦めるしかない大会が公平であるはずがない。

寄席の落語でもおもしろい芸人は後から登場する。最高におもしろいと思うためには、観る側にも準備が必要であり、疲れてくると集中力が切れて笑えなくなるということもある。

あるいは場が荒れるような激しいネタの直後では、正統派の漫才は物足りなく感じるし、同じようなネタが偶然にも重なると、後に出た方の印象が悪くなる。

生物としての人間の特性上、「おもしろい」という主観的な感覚は、公平性とは相性が悪い。この問題は根本的に解消不可能だろう。

 

 2-1-2 その都度採点のジレンマ

一般的なコンテストやオーディションでは、参加者が全員パフォーマンスを披露した後に、審査員が協議して優勝者を決める。しかし主要なお笑い賞レースでは、ネタごとに採点や判定が行われ、審査員のコメントもある。これは完全にTVショーとしての都合である。

そもそもランキングをつけることに無理がある上に、その都度採点をしなければいけないことによって、さらに歪みが生じる。

1組目に95点などの高得点をつけてしまうと、それ以後のネタが予想以上におもしろい場合に、差がつけられなくなってしまう。近年では80点台は低評価という流れになっているので、審査員は後の芸人のことを考えながら10点前後の少ない幅のなかで、1点刻みの僅差で評価しなくてはならなくなっている。

ちなみに松本人志バカリズムは、基本的に同じ点数をつけずに、明確に順位をつけることを心がけていると見受けられるが、

本来これは全てのネタを観た上でないと成立しない方法であり、「もうこの点数しか残っていない」とか、「こことここの間に入ってくれ」といった余計な問題や願望が入ってしまう危険性がある。だが、この二人は大会の結果とは別にその個人評価自体が特別な意味をもつため、芸人にとっては明確に順位をつけてもらったほうが嬉しいという要素もあるだろう。

またThe Wでのネタごとに決選投票をする方法は、記憶の鮮明さや新しい方を評価したくなる人間の心理上、どうしても後半が有利になってしまう。

 

 2-1-3 認知度のジレンマ

同じネタであれば、やはり初見がいちばんおもしろいと感じるのが常である。ストーリーで笑わせる要素が強いコントならば、2度目以降はいわばネタバレした状態になる。審査するネタが以前観たことがある場合は、やはりその瞬間のおもしろさの感覚は弱くなるだろう。

では採点の際には、そのときの感覚を反映させるべきだろうか、それとも初回の感覚を思い出すべきか、あるいはその成長や技術を評価するべきか。これも審査員によって判断は異なるだろう。

それゆえ、審査対象の一部に初見でないネタが入ると、評価は複雑になり、公平性からはさらに遠ざかってしまう。

オール巨人のように意識的に全組のネタを事前にチェックするケースは例外であり、審査員がどのネタを観たことがあるかは、偶然によるところも大きい。

さらに、同じネタでなくとも、Wボケやズレ漫才、のりボケ漫才などのフォーマットを知っているかどうか、あるいはその芸人の人間性を知っているかどうかでも、ネタに対する印象は変わってくる。既に認知されている芸人と無名な芸人では、それぞれ有利不利な点があり、同じ前提条件で戦っているとは言い難い現状である。

 

 2-1-4 最終決戦で何を決めるのか?

主要賞レースでは決勝上位の芸人は2ネタ披露することになる。それはつまり、賞レースはいちばんおもしろいネタを決めるのではなく、いちばんおもしろい芸人を決めるということだ。圧倒的におもしろいネタが1つできても、最終決戦の2ネタ目がおもしろくなければ優勝はできない。単純な合算で判定するキングオブコントですら、いわゆる「ロッチ現象」が発生する。

また、2本目の評価には1本目とのつながりも関わってくる。特に漫才の場合、1本目で圧倒的にウケたのなら、2本目も同じフォーマットのネタで押し切るのが正攻法であり、観る側もそれを望んでいるところもある。審査員にもよるが、全く違うことをやるとがっかりされてしまうリスクがある。

最終投票の判断基準はあまり明確ではない。1本目をまったく考慮しないのかどうかも曖昧である。あるいはネタでなく人を評価するという意味では、ネタ以外のスター性や物語性が基準になることもある。M-1節目の10年目に笑い飯が優勝したのも功労賞という意味合いがあっただろう。それはひとつの評価基準として正しいし、番組自体の盛り上がりにもなる。つまり誰を優勝させるかの判断は単純なネタの採点以上に各審査員の価値観によって判断される要素が大きいのだ。

 

 

2-2 審査員のジレンマ

 2-2-1 審査員の個性と立場

冒頭の現役世代審査員による評価傾向の話もそうだが、審査員はそれぞれ異なった「おもしろさ」の基準をもっている。それが審査というかたちになると、単なる好みの違い以上の問題がでてくる。

はたして審査員は、自らの主観的な「おもしろさ」だけで評価しているのだろうか?

審査員は実力者であるからこそ、客観的な分析力はもっている。あるいは客席の(主にお笑いライト層の女性)の笑いの量も参考になる。

また、審査員にもそれぞれ背負っているものがある。島田紳助オール巨人には、本人の好みとは別の、漫才や笑いに対する強い思いを感じる。

さらには審査をすることのリスクというものもある。変幻自在の審査をする板尾創路はまだいいとしても、あまりにも好き嫌いが激しい上沼恵美子立川志らくなどに対しては、誹謗中傷が殺到する。自分がおもしろいと思うままに評価して批判されるというのも奇妙ではあるが、一般的な感覚とズレがあり、それが優勝者の決定に影響を与えた場合には、文句をいいたくなる気持ちもわからなくはない。

審査員は人の人生を変えるという極度のプレッシャーのなかで、批判のリスクにさらされながら審査をする。だからこそ、個性爆発の審査をする者がいる傍らで、自分の好みを抑えた無難な審査をしようとする者も出てくる。

博多大吉は採点で自分の好みによる要素を抑えたと表明しており、点数の幅も5点以内に留めていた。これはある意味で、個性を抑えてバランスを取るという、ひとつの個性である。

空気を読みながら制作側の意図を巧みに実現する能力に優れた芸人は、100%自分の好みで採点することはないのだろう。だが、個性を抑えすぎると、ケインズの美人コンテストのジレンマと同様に、「自分は本当はこの人がいいけど、みんなはこの人が好きだろうからこちらを選ぼう」というかたちで、実は誰も好きではない人が優勝してしまうというケースもありうる。The Wのように、審査員が一人複数票をもつ場合には、1票はこの人に入れておこうという「お情け票」が積もって優勝するということも起こりうる。

 

 2-2-2 審査員を決めることが優勝者を決める

審査員がどのような基準で評価するかは、忖度するか否かも含め、基本的に本人に委ねられているはずである。

しかし、どれだけ一人の審査員が個性的な採点をしても、審査員の数が多ければ結果への影響は少なくなる。

極端な例としては、初期のキングオブコントの審査には準決勝で敗退した芸人100人が10点満点で採点するというかたちがあった。

これはプロの現役世代の民主的な評価といえるが、どうしても吉本興業のような大手事務所のベテランが有利になる。

それは不正な組織票ではない。親しい人や憧れの人であれば、その人のネタを通常よりもおもしろいと感じるのは人間の習性なのだ。

視聴者投票も同様に、ただの人気投票になる傾向があり、全てのネタを見ていない人が審査するといった事態も招いてしまうので、採用したとしても結果に影響しにくい程度に留められている。

するとやはり、誰もが認める実力者数名による審査が好ましい。場合によっては異分野の実力者を入れるのもいいだろう。

ただし少人数の審査の場合、たとえば5人のうち1人が20点以上の点数の幅をつけると、その人にハマるかどうかが結果に直結することもある。

制作側は、審査員の個性を、人数でどう調整するかを考えなければならない。

審査員が5人か9人か、つまり500点満点と900点満点では、1点の格差は1.8倍である。

また、重責である審査員のオファーを誰もが了承してくれるわけではない。審査員に選ばれれば芸人として箔がつくが、上述したような審査に対する批判のリスクに加え、自分がネタをするときには厳しい目でみられるという問題もある。偉そうに審査してるからには、おもしろくないといけないというわけだ。

また、審査員間での東西や世代、芸風や経歴、男女のバランスも考えないといけない。バランスといっても、均等にするという意味ではない。

例えばご時世に合わせて男女比を均等にすると、圧倒的に男性に偏ってきた笑いの歴史ゆえに、実績のバランスが崩れてしまう。その意味では、何が平等と言えるのかすらわからない。

客観的基準どころか正解や平等がないような世界だからこそ、審査員の選択には判断の基準を提示するという重要な役割がある。

国民的美少女コンテストとホリプロスカウトキャラバンでは審査のポイントが異なるだろうし、向き不向きもある。それが大会の特色であり、魅力でもある。本来コンテストというのはそういうものだ。

どのようなネタが評価されるかという、大会の色を決めるのが審査員なのである。たとえば東京の中堅コント師で審査員を固めれば、それが大会の示すおもしろさの基準になる。ただし審査員と同じ芸風が有利というわけではないが。

審査員の選定が採点方針を決める上で決定的に重要であるということは、極端にいえば、制作側は審査員を選ぶことで優勝者を間接的に選ぶことすらできるということでもある。審査員の中心がTVスターで固められていることは、制作側の意図でもあるのだ。

ただし、準決勝までの審査員は番組スタッフや放送作家などが分業しているし、決勝の審査員はファイナリスト決定後に発表されることが多いので、出場者側は審査員に合わせて対策をするということはほとんどできない。邪推だが、この現状は制作側がコントロールするには都合がいい。

 

 

3 結論

簡潔にまとめよう。

お笑い賞レースはめちゃくちゃTV仕様に偏っているし、結果はめちゃくちゃ偶然に左右される。それでもめちゃくちゃおもしろいお祭りである。

 

だからこそ、私が言いたいのは、

こんなに偏った笑いである賞レースが絶対視されと、笑いの多様性が失われ、持続可能性すらもなくなってしまうのではないか。豊かな笑いの経験に加え、笑いのSDGs対策として、観る側も出る側も、賞レースという祭りは祭りとして楽しみつつも、その矛盾や偏りを理解して、その影に隠れている多様な笑いに目を向け、守ってほしいということだ。