せららばあどの随想録

エンターテインメントを哲学する

バカリズムとアドラーと渋谷の若者たち

バカリズムライブ「image」

 

草月ホール

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渋谷の街で騒ぎ立てる若者たちを見て、あなたはどう思うだろうか。

愚かな奴らだと蔑む気持ちがある一方で、

わずかでも「ちょっとうらやましい」という感覚が、ないと言えるか?

自分も本当は東京のど真ん中でオシャレな人たちと楽しく騒ぎたい、

でもそんなことできないし、そんなことは軽率だからしたくない。

軽率? 本当にそうか? 

もしかして劣等感をごまかしているだけじゃないのか?

 

そんなふうに自問自答していたが、

最近はある仮説を下に、考え方を変えた。

仮説「渋谷で騒いでる奴らは、地方出身者だけだ」

 

私は東京生まれ東京育ちで、渋谷にもよく行く。

「渋谷」という街に憧れているからではなく、用があるから行く。

一方、地方出身者は東京や渋谷への憧れが強い。

だからこそ、憧れの街「渋谷」で騒いでいる人々にも憧れや劣等感を抱く。

そして「今度は自分が」と、ハラハラしながら上京し、ハラハラしながら渋谷で騒ぐ。

そして少しずつ渋谷に慣れていき、日本の中心にいることに誇りをもち、

その小慣れた姿が、「渋谷の街で騒ぐ若者」として、誰かに憧れられる。その連鎖。

つまり、渋谷は田舎者が田舎者にマウントを取るための場なのだ。

東京の人間には関係ない。憧れや劣等感など抱く理由がない。勝手にやっていればいい。

 

さて、そしてバカリズムである。

こんなこと言いたくないが、あくまで事実として、彼は「田舎者のチビ」だ。

成績も悪いし、他にも劣等感につながる様々な要素がある。

しかしこの田舎者のチビは、今や本人の思惑通り、天才、多才という冠が付いて回る。

もはやバカリズムの悪口を言うことは許されない雰囲気だし、実際、悪口の挟みどころもない。

ただ、彼が努力型でないのは確かだが(もちろん努力はしているだろうが)、

天才かどうかは疑問である。

バカリズムのイマジネーションは、持って生まれた才能というよりも、劣等感との戦いのなかで獲得したと考える方が妥当ではないか。

「田舎者のチビ」がナメられないために、モテるために、野球をやり、喧嘩をやり、笑いをやる。

自分の能力を信じて、悪態をつきながら刃を磨く不遇の時代を経て、今や天才と呼ばれる優越を得た。

そんなバカリズムに、「都会者の長身」である私は憧れを抱く。劣等感も抱く。

 

劣等感は生の原動力であるとアドラーは言う。

性衝動(モテたい)は生の原動力であるとフロイトは言う。

劣等感の克服という意味では、バカリズムも渋谷の若者も同じだ。

しかしバカリズムの笑いには、もはや劣等感や承認欲求が見えない。

あるのかもしれないが、バカリズム本人の自己受容と、観る側の信頼によって、見えないところまで背景化している。

渋谷の若者たちの見え透いた自己顕示欲は無視していいが、

他者ではなく、自分の理想を追い求めるバカリズムは無視できない。

 

いじり尽くされたはずのおとぎ話で鮮やかに新しい笑いをつくってみせる。

我々の足元に転がっていたものを、バカリズムは拾って、遊んで、自慢する。

あの妖しい笑顔のなかにある暴力性。

その恐怖と刺激をまともに受けることで、共同体全体が高みに向かっていくのだ。

ひとまず「天才」に屈服しよう。