せららばあどの随想録

エンターテインメントを哲学する

東京03飯塚さんのツッコミがテレビ向きでない理由

東京03第二十一回単独公演「人間味風」

@The Garden Hall

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tokyo03.22th

 

前日にアメトーーク!で「東京03飯塚大好き芸人」が放送され、追い風状態での追加公演2日目。

「お笑い芸人」とか「キングオブコント王者」とか、そういう毒素が抜けて、どこにでもいる普通のおじさんになってきた3人だからこそできる、どこにもない特別なライブ。

その特別さは、年を追うごとに増している。

 

今更いうことでもないが、東京03のコントはとことん日常のなかにあり、

誰もが経験したことのある「気まずさ」や「違和感」を抽出・拡大し、笑いに昇華してくれるという、カタルシスに魅力がある。

日々のストレスを笑いに変換してくれる装置としてのコント。

お笑いライブらしからぬ、働き盛りの大人たちが客の大半を占める理由もそこにあるだろう。

この先、自分に同じことが起きても、心の中で飯塚さんのようにニヤニヤすればいい。

今回は、「失敗をイジろうとすると論点をずらしてくる奴」が典型だろうか。

 

アメトーーク!でも語られていたように、飯塚さんのツッコミはスロースタート方式になっていて、ツッコムべき人間をかなりの時間、放置する。

ここがリアルとコントの分岐点。観る側にとっては「もしも」のはじまり。

放置された男の暴走が臨界点に達したときに、観客は救いを求める。そして、飯塚が動き出す。

 

ここで一線級のツッコミ芸人ならば、状況を的確にとらえたセンスある言葉で切り裂くだろう。

しかし飯塚さんはそうではない。「満を持して」放つ第一声は、ふつうなのだ。

東京03のコントの世界観において、ワードセンスという「非日常」は不要なのだ。

(かっこつけたり、センスあることを言うと、飯塚さんにイジられる)

誰もが言いそうな言葉だからこそ、共感とカタルシスが生まれる。

そして、誰もが言いそうな言葉から、最も笑いにつながるチョイスができるのが、飯塚さんの能力なのだ。

たしかに、その日常言語には、センスツッコミほどの一発の斬れ味はない。

だが、一発の斬れ味は、物語の流れを止める。

一つのボケや一つのツッコミは物語の要素でしかない。

観せたいのはコントという物語である。

 

個人的には「関東ツッコミNo.1」的な触れ込みはやめたほうがいいと思う。

飯塚さんのツッコミは、そこだけ切り取ったら、ふつう。コントを全体からみたら、最高。

コントという文脈がないと、彼のすごさはわからない。点ではなく、線の笑い。

だからこそ、一発の斬れ味や、短時間での笑いを求められるテレビにはどうしても合わない。

ライブの主な客層である働き盛りの大人達は、視聴率をもっている世代ではない。

一本目のネタは、テレビや賞レースで求めらる「笑いの数」や「つかみの早さ」の真逆をいく挑発にさえ思えた。

 

テレビに出ずに単独公演だけに集中できるのは、理想的な環境だ。

東京03があえてそれをやっているかはわからないが、小林賢太郎はあえてやっている。

このかたちでしかできない表現や密度の濃さがあると思い知らされる。

笑いの主戦場はテレビではなく舞台なのだと、突きつけられた。