せららばあどの随想録

エンターテインメントを哲学する

差別と自虐と笑い(1)渡辺直美を笑うこと

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女性芸人の見た目をイジることが議論されている。

その渦中にいる3時のヒロインの福田さんは、見た目イジりを止める理由は、単純に客が笑わなくなったからだという。だとすれば当然の判断だ。

 

では、なぜ客は笑わなくなったのだろうか?

そこにはやはり女性の見た目を(特に男性が)笑うことに対する差別意識があるからだろう。

笑わせているのではなく、笑われているのだとしたら、それは嘲(あざけ)りや蔑視となり、差別にもなる。

議論の波は男性芸人にも派生して、ブス、チビ、デブ、ハゲはイジっていいのかという問題へと広がっていく。

 

この風潮に当該芸人達がやりづらさを吐露するシーンも散見される。

見た目のおもしろさは笑いの武器であり、

少し前まで人気女性芸人はそれが主たる武器だったのも事実だ。

大事な商売道具を奪われるのは死活問題である。

当然だが、彼女らは本心はどうあれ、見た目をイジられることを許容するし、自虐ネタとして自ら笑いにすることもある。

他人にイジられる笑いと自虐の笑い。今回はこれがテーマ。

 

見た目イジりが女性差別につながるなら、女性芸人という圧倒的少数の仕事を守るためにこの差別を放置するわけにはいかない。

ただ、見た目のコンプレックスを笑いに変える芸人は、同じ悩みをもつ多くの人々の希望でもあったのではないだろうか

コンプレックスがあっても明るく振る舞い、人々に笑いと勇気を与えてくれる存在。芸人にはそういう社会的役割もある。

その象徴といえるのが渡辺直美さんだ。

彼女のビヨンセ芸は、見た目の笑いである。だから海外でも通用する。

上手なダンスと迫真の表情が笑いを生むが、ビヨンセに似た人が同じことをやっても笑いにはならない。

コロッケさんを手本とする顔芸など、そのおもしろさが彼女をスターにして、そのライフスタイルさえも評価されるようになった。

彼女はコンプレックスを魅力に変えてしまったわけだが、そこには笑いという要素が不可欠だった

 

見た目を笑ってはいけないということは、渡辺直美ビヨンセを笑ってはいけないという道につながる。それは渡辺直美のおもしろさを否定することでもある。

だが、「人の見た目を笑うな」は、「美しものに惹かれるな」と同じくらい不可能なのではないだろうか。

もし見た目を笑うことを全面禁止するのであれば、変顔でも笑ってはいけないことになる。

 

たしかに「デブ」などの、ある種の見た目が笑いの対象になるかどうかは社会的意識によって変化するだろう。

なので渡辺直美がまったくおもしろくないどころか不愉快になる未来は来るかもしれない(差別的だと思われる可能性もある)。現に過去のテレビ番組に嫌悪感を抱くこともある。それは仕方がないことだ。

 

では見た目イジリのうちで何が許されるのか?

つまりどこまでが笑いで、どこからが差別なのか。

可能性の一つはやはり、本人が認めているかどうか

イジメもセクハラも、やられた方が被害意識をもつことで成立する。

つまり本人の気持ち次第。

 

すると加害者になりたくないので、周囲の人間は慎重になる。

危機意識のない年配者ばかりが加害者になる。

その反面、自虐は本人が許容しているので、原則的に加害者にはなりえない。

『翔んで埼玉』も、埼玉の人間がつくり、埼玉の人間が許容しているからよいのであって、他県の人間がつくったら問題になっただろう。

 

自虐ならよし。だが、笑いの世界はそう簡単ではない。

自虐で笑いが起きたとき、ツッコミ(による笑いの増幅)がないことに違和感を感じてしまう。

芸人同士の信頼関係があれば、ツッコミは成立する。

しかし、客の全てがそれを理解できるわけではない。

それどころか、信頼に基づく「瞬間のフレーズ」を切り取って一般化し、「〇〇がこんなことを言った」といって、加害者にしようとしてしまう。

悪意をもった人に限らず、時代があらゆる人に監視者の見方を根付かせてしまっている要素もある。

被害者がいないのに加害者が生まれる。自分の武器を使って誰かが不特定多数を傷つけたので、その罪を問われるのだ。そうして笑いは差別に変化する。

 

笑いは弱くなるが、イジリや差別の加害者になることを防ぐためには、思いついても言葉にしないのが安全である。

見た目がおもしろくて笑ってしまうのと、それを言葉にすることには大きな違いがある。少なくとも今は、笑ってしまうだけで差別の加害者と言われることはない(何で笑ったかなんていくらでもごまかせるし)。

あくまで発言や積極的行為が問題なのだ。

ブサイクな人に告白されたとき、例え本心であっても「ブサイクだから付き合いたくありません」とは言わないし、言えないだろう。

そういうマナーというか、気遣いは既に存在している。相手を傷つけないために、見た目について思ってしまっても言葉にしてはいけない。

 

渡辺直美さんのビヨンセ芸がアメリカでウケているのは「デブで手足の短いアジア人がビヨンセのマネをしている」からかもしれないが、そんなふうに言葉にはしてはいけないし、言語化した瞬間に笑いは差別に急変し、笑えなくなる。

見た目を笑っても、何も言葉にするべきではない。

褒め言葉のつもりでも、簡単に差別になってしまうのだ。

 

差別をなくすことが、ひとときの笑いより優先されるのは当然だ。

差別しないために、黙して笑いを捨てる。

それは、社会のために芸人が支払う税金のようなものだ。

ただし、この税制が正しいとは限らない。

次回は、差別の聖域「自虐」と笑いについてさらに掘り下げていく。