せららばあどの随想録

エンターテインメントを哲学する

お笑い賞レースの矛盾と功罪 ー笑いのSDGs対策ー

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お見送り芸人しんいち(敬称略、以下同様)が優勝した2022年のR-1グランプリについて、松本人志は、今年の審査員(陣内智則バカリズム小籔千豊野田クリスタルハリウッドザコシショウ)はみな現役世代なので、自分と同じタイプの芸には投票しない傾向になり、結果的にどの審査員とも重ならない「歌ネタ」が評価されやすかったのではないか、と評している。

現役世代とレジェンド世代の微妙な心理を実感しているからこその分析なのだろう。

松本人志は、優勝者や審査員、大会方式に文句を言っているわけではない。ただの分析であって、結果は尊重している。

お笑い賞レースについて、これまで多くの議論がされてきたし、いまだに各大会も変化を続けている。

今回はお笑い賞レースを楽しむためにあらかじめ理解しておくべき、笑いを審査することの矛盾や功罪を、私なりに整理しておこうと思う。

おそらく大会を重ねるごとに新しい気づきが生まれるので、この記事は適宜更新していくことを前提とする。

また、ここでいうお笑い賞レースは主にM-1、R-1、キングオブコント、The Wを想定している。

 

 

1 そもそもなぜお笑いで賞レースをやる必要があるのか?

1−1 おもしろさに順位などつけられない

陸上競技や球技などのスポーツとは違って、笑いの勝敗は明確ではない。

スポーツにもボクシングの判定やフィギュアスケートの芸術点などはあるが、そこには手数や姿勢、高さなど、ある程度の客観的な基準がある。

それに対して笑いは、「おもしろさ」という感覚的な基準が重視される。

もちろん、笑いにも、手数や設定、間など、客観的に評価できる要素もあるが、「うまさ」は「おもしろさ」とは同じではない。

身長160cmの選手と180cmの選手のトリプルアクセルは同じ技術点だが、迫力は違う。「おもしろさ」はいわばこの迫力も評価に含むのだ。

そして、何をおもしろいと思うかは人によって違うし、後述するように同じ人でもおもしろさの評価は不安定になる。

はっきりいって、おもしろさという主観的な感覚を基準にする限り、公平な審査などありえない。

だとしたら、勝敗や点数を決める賞レースなどやるべきではないのではないか?

 

1-2 笑いの多様性を排除している

「漫才日本一を決める」と謳ったところで、芸歴15年以上の漫才師の方がおもしろいのではないか。

それに、漫才は漫才でもM-1は4分漫才である。寄席などの舞台でやるネタはもっと長いのが通常である。

15分のネタでこそ輝く芸人もいれば、1分のショートコント、3秒のギャグを得意とする芸人もいる。残念ながらそのような芸人は賞レースで優勝することは難しい。

5分のコント、4分の漫才、3分のピン芸というのは、テレビサイズのネタ尺である。主要賞レース決勝はTV番組であり、基本的に賞レースはテレビに適応できる芸を優先している。

漫才、コント、ピン、女性といったゆるやかな縛りの影で、ネタ時間や芸歴制限といった規定が、多様な笑いの侵入を排除している。

では規制を緩和して多様性を確保するればいいのかというと、それはそれで審査がますます混迷を深め、個人の好みの要素が強くなる。比較的規制の少ないThe Wはその傾向が強い。

 

15分のネタを2分にして1・2回戦で敗退する芸人は、はたして実力のない芸人なのだろうか。賞レースのもつ意義があまりにも大きくなってしまうと、その独自の大会方式に適応できない芸人が実力以上に低く評価されたり、活躍の場を奪われる事態が生じる。これもまた、賞レースが生んだ影の部分である。

賞レースで観るネタは笑いのなかでも限られたジャンルであるということを自覚しなければいけない。

ショートネタなら動画投稿でスターになる可能性はあるが、長尺ネタを得意とする芸人には特に厳しい時代である。

 

1−3 スターをつくるショー

おもしろさを数値化することの問題は、誰よりも当事者である芸人がわかっているはずだ。

にもかかわらず、笑いに順位をつけることは古くから行われている。なぜか?

「おもしろい」を基準にした賞レースをやる意味は、それがおもしろいからだ。

M-1を頂点に、お笑い賞レースは人気のコンテンツである。オリンピックやワールドカップと同様、真剣に努力してきた者同士の戦いは観ていておもしろい。

もちろん芸人は賞レース以外でも真剣なのだが、観る側も真剣になるという点が重要である。しかも笑いに専門知識は必要ない。

このショーの大きな特徴は、感動だけでなく、笑いがあるということだ。笑いながら感動する、真剣勝負なのに笑えるというのは、かなり高次元の娯楽である。

 

制作側の立場からすれば、娯楽としての価値がなければTVでの大規模な賞レースは開催されないだろう。

そして価値を上げるためには規模を拡大することが望ましい。規模が大きいほど、レベルも高く、影響力も強くなるので、賞レースは祭りのような演出になる。

賞レース自体の人気のみならず、毎年確実にスターをつくれるという利点もある。新チャンピオンを呼んで恒例企画をするだけでも番組は成立する。実力もあるのだから失敗する可能性も低い。TVのみならず、営業やライブでも「王者」や「ファイナリスト」という肩書きは集客につながる。

 

1−4 笑いの新陳代謝

芸人にとっても、賞レースのもつ意味は大きい。多くの若手芸人にとって、賞レースは最優先の目標である。

賞レースをきっかけにスターダムにのし上がっていくという明確なモデルが確立したことで、芸人を志す者も増え、競争率も高くなり、全体のレベルが上がっていく。

新しいシステムが開発されれば、翌年には多くの芸人がそれを取り入れている。賞レースは確実に笑いを進化させた。

一方で島田紳助は、M-1が芸人に辞めるきっかけを与えるとも語っていたそうだ。

おもしろさが数値化できないということは、笑いが取れず人気もない芸人でも、なんらかの言い訳を使えば自分がおもしろいと思い込めるということでもある。

しかし、賞レースには明確な勝敗が、すなわち優劣がある。激しい競争の中で、敗退の現実を突きつけられたとき、芸歴制限によって挑戦権を失ったとき、やはり引退を考えるだろう。実際に芸人として生活できる人間はごく一部であり、芸人を辞めることで、人間として幸せを掴むチャンスはむしろ増えるかもしれない。

賞レースは競争によって笑いのレベルを向上させつつ、辞めるに辞められない芸人たちの背中を押すことで、芸人や社会の新陳代謝を促しているのだ。

 

 

2 審査のジレンマ

人それぞれであるはずの「おもしろさ」に順位をつけることの矛盾に対して、大会運営側は、可能な限り視聴者や芸人の違和感や不信感をなくす努力をしなければならない。

そのうえで重要なのは、どのように審査するかと、誰を審査員にするかである。この点にも賞レースが抱えるジレンマが如実に現れている。

これについては様々な議論があり、大会形式もいまなお変更を続けている。いくつか議論をまとめてみよう。

 

2-1 審査方法のジレンマ

 2-1-1 ネタ順のジレンマ

ネタ順が審査に影響することは、いまさら説明する必要もない。特にトップバッターが圧倒的に不利であることは明確である。この話をすると中川家の例が反証としてよく出てくるが、逆に言えば、第1回のM-1以来、主要賞レースでトップバッターの優勝がないということでもある。

偶然で決定されるネタ順が結果に影響することは、審査が客観性を欠くことの証拠である。トップバッターになったら優勝を諦めるしかない大会が公平であるはずがない。

寄席の落語でもおもしろい芸人は後から登場する。最高におもしろいと思うためには、観る側にも準備が必要であり、疲れてくると集中力が切れて笑えなくなるということもある。

あるいは場が荒れるような激しいネタの直後では、正統派の漫才は物足りなく感じるし、同じようなネタが偶然にも重なると、後に出た方の印象が悪くなる。

生物としての人間の特性上、「おもしろい」という主観的な感覚は、公平性とは相性が悪い。この問題は根本的に解消不可能だろう。

 

 2-1-2 その都度採点のジレンマ

一般的なコンテストやオーディションでは、参加者が全員パフォーマンスを披露した後に、審査員が協議して優勝者を決める。しかし主要なお笑い賞レースでは、ネタごとに採点や判定が行われ、審査員のコメントもある。これは完全にTVショーとしての都合である。

そもそもランキングをつけることに無理がある上に、その都度採点をしなければいけないことによって、さらに歪みが生じる。

1組目に95点などの高得点をつけてしまうと、それ以後のネタが予想以上におもしろい場合に、差がつけられなくなってしまう。近年では80点台は低評価という流れになっているので、審査員は後の芸人のことを考えながら10点前後の少ない幅のなかで、1点刻みの僅差で評価しなくてはならなくなっている。

ちなみに松本人志バカリズムは、基本的に同じ点数をつけずに、明確に順位をつけることを心がけていると見受けられるが、

本来これは全てのネタを観た上でないと成立しない方法であり、「もうこの点数しか残っていない」とか、「こことここの間に入ってくれ」といった余計な問題や願望が入ってしまう危険性がある。だが、この二人は大会の結果とは別にその個人評価自体が特別な意味をもつため、芸人にとっては明確に順位をつけてもらったほうが嬉しいという要素もあるだろう。

またThe Wでのネタごとに決選投票をする方法は、記憶の鮮明さや新しい方を評価したくなる人間の心理上、どうしても後半が有利になってしまう。

 

 2-1-3 認知度のジレンマ

同じネタであれば、やはり初見がいちばんおもしろいと感じるのが常である。ストーリーで笑わせる要素が強いコントならば、2度目以降はいわばネタバレした状態になる。審査するネタが以前観たことがある場合は、やはりその瞬間のおもしろさの感覚は弱くなるだろう。

では採点の際には、そのときの感覚を反映させるべきだろうか、それとも初回の感覚を思い出すべきか、あるいはその成長や技術を評価するべきか。これも審査員によって判断は異なるだろう。

それゆえ、審査対象の一部に初見でないネタが入ると、評価は複雑になり、公平性からはさらに遠ざかってしまう。

オール巨人のように意識的に全組のネタを事前にチェックするケースは例外であり、審査員がどのネタを観たことがあるかは、偶然によるところも大きい。

さらに、同じネタでなくとも、Wボケやズレ漫才、のりボケ漫才などのフォーマットを知っているかどうか、あるいはその芸人の人間性を知っているかどうかでも、ネタに対する印象は変わってくる。既に認知されている芸人と無名な芸人では、それぞれ有利不利な点があり、同じ前提条件で戦っているとは言い難い現状である。

 

 2-1-4 最終決戦で何を決めるのか?

主要賞レースでは決勝上位の芸人は2ネタ披露することになる。それはつまり、賞レースはいちばんおもしろいネタを決めるのではなく、いちばんおもしろい芸人を決めるということだ。圧倒的におもしろいネタが1つできても、最終決戦の2ネタ目がおもしろくなければ優勝はできない。単純な合算で判定するキングオブコントですら、いわゆる「ロッチ現象」が発生する。

また、2本目の評価には1本目とのつながりも関わってくる。特に漫才の場合、1本目で圧倒的にウケたのなら、2本目も同じフォーマットのネタで押し切るのが正攻法であり、観る側もそれを望んでいるところもある。審査員にもよるが、全く違うことをやるとがっかりされてしまうリスクがある。

最終投票の判断基準はあまり明確ではない。1本目をまったく考慮しないのかどうかも曖昧である。あるいはネタでなく人を評価するという意味では、ネタ以外のスター性や物語性が基準になることもある。M-1節目の10年目に笑い飯が優勝したのも功労賞という意味合いがあっただろう。それはひとつの評価基準として正しいし、番組自体の盛り上がりにもなる。つまり誰を優勝させるかの判断は単純なネタの採点以上に各審査員の価値観によって判断される要素が大きいのだ。

 

 

2-2 審査員のジレンマ

 2-2-1 審査員の個性と立場

冒頭の現役世代審査員による評価傾向の話もそうだが、審査員はそれぞれ異なった「おもしろさ」の基準をもっている。それが審査というかたちになると、単なる好みの違い以上の問題がでてくる。

はたして審査員は、自らの主観的な「おもしろさ」だけで評価しているのだろうか?

審査員は実力者であるからこそ、客観的な分析力はもっている。あるいは客席の(主にお笑いライト層の女性)の笑いの量も参考になる。

また、審査員にもそれぞれ背負っているものがある。島田紳助オール巨人には、本人の好みとは別の、漫才や笑いに対する強い思いを感じる。

さらには審査をすることのリスクというものもある。変幻自在の審査をする板尾創路はまだいいとしても、あまりにも好き嫌いが激しい上沼恵美子立川志らくなどに対しては、誹謗中傷が殺到する。自分がおもしろいと思うままに評価して批判されるというのも奇妙ではあるが、一般的な感覚とズレがあり、それが優勝者の決定に影響を与えた場合には、文句をいいたくなる気持ちもわからなくはない。

審査員は人の人生を変えるという極度のプレッシャーのなかで、批判のリスクにさらされながら審査をする。だからこそ、個性爆発の審査をする者がいる傍らで、自分の好みを抑えた無難な審査をしようとする者も出てくる。

博多大吉は採点で自分の好みによる要素を抑えたと表明しており、点数の幅も5点以内に留めていた。これはある意味で、個性を抑えてバランスを取るという、ひとつの個性である。

空気を読みながら制作側の意図を巧みに実現する能力に優れた芸人は、100%自分の好みで採点することはないのだろう。だが、個性を抑えすぎると、ケインズの美人コンテストのジレンマと同様に、「自分は本当はこの人がいいけど、みんなはこの人が好きだろうからこちらを選ぼう」というかたちで、実は誰も好きではない人が優勝してしまうというケースもありうる。The Wのように、審査員が一人複数票をもつ場合には、1票はこの人に入れておこうという「お情け票」が積もって優勝するということも起こりうる。

 

 2-2-2 審査員を決めることが優勝者を決める

審査員がどのような基準で評価するかは、忖度するか否かも含め、基本的に本人に委ねられているはずである。

しかし、どれだけ一人の審査員が個性的な採点をしても、審査員の数が多ければ結果への影響は少なくなる。

極端な例としては、初期のキングオブコントの審査には準決勝で敗退した芸人100人が10点満点で採点するというかたちがあった。

これはプロの現役世代の民主的な評価といえるが、どうしても吉本興業のような大手事務所のベテランが有利になる。

それは不正な組織票ではない。親しい人や憧れの人であれば、その人のネタを通常よりもおもしろいと感じるのは人間の習性なのだ。

視聴者投票も同様に、ただの人気投票になる傾向があり、全てのネタを見ていない人が審査するといった事態も招いてしまうので、採用したとしても結果に影響しにくい程度に留められている。

するとやはり、誰もが認める実力者数名による審査が好ましい。場合によっては異分野の実力者を入れるのもいいだろう。

ただし少人数の審査の場合、たとえば5人のうち1人が20点以上の点数の幅をつけると、その人にハマるかどうかが結果に直結することもある。

制作側は、審査員の個性を、人数でどう調整するかを考えなければならない。

審査員が5人か9人か、つまり500点満点と900点満点では、1点の格差は1.8倍である。

また、重責である審査員のオファーを誰もが了承してくれるわけではない。審査員に選ばれれば芸人として箔がつくが、上述したような審査に対する批判のリスクに加え、自分がネタをするときには厳しい目でみられるという問題もある。偉そうに審査してるからには、おもしろくないといけないというわけだ。

また、審査員間での東西や世代、芸風や経歴、男女のバランスも考えないといけない。バランスといっても、均等にするという意味ではない。

例えばご時世に合わせて男女比を均等にすると、圧倒的に男性に偏ってきた笑いの歴史ゆえに、実績のバランスが崩れてしまう。その意味では、何が平等と言えるのかすらわからない。

客観的基準どころか正解や平等がないような世界だからこそ、審査員の選択には判断の基準を提示するという重要な役割がある。

国民的美少女コンテストとホリプロスカウトキャラバンでは審査のポイントが異なるだろうし、向き不向きもある。それが大会の特色であり、魅力でもある。本来コンテストというのはそういうものだ。

どのようなネタが評価されるかという、大会の色を決めるのが審査員なのである。たとえば東京の中堅コント師で審査員を固めれば、それが大会の示すおもしろさの基準になる。ただし審査員と同じ芸風が有利というわけではないが。

審査員の選定が採点方針を決める上で決定的に重要であるということは、極端にいえば、制作側は審査員を選ぶことで優勝者を間接的に選ぶことすらできるということでもある。審査員の中心がTVスターで固められていることは、制作側の意図でもあるのだ。

ただし、準決勝までの審査員は番組スタッフや放送作家などが分業しているし、決勝の審査員はファイナリスト決定後に発表されることが多いので、出場者側は審査員に合わせて対策をするということはほとんどできない。邪推だが、この現状は制作側がコントロールするには都合がいい。

 

 

3 結論

簡潔にまとめよう。

お笑い賞レースはめちゃくちゃTV仕様に偏っているし、結果はめちゃくちゃ偶然に左右される。それでもめちゃくちゃおもしろいお祭りである。

 

だからこそ、私が言いたいのは、

こんなに偏った笑いである賞レースが絶対視されと、笑いの多様性が失われ、持続可能性すらもなくなってしまうのではないか。豊かな笑いの経験に加え、笑いのSDGs対策として、観る側も出る側も、賞レースという祭りは祭りとして楽しみつつも、その矛盾や偏りを理解して、その影に隠れている多様な笑いに目を向け、守ってほしいということだ。

差別と自虐と笑い(1)渡辺直美を笑うこと

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女性芸人の見た目をイジることが議論されている。

その渦中にいる3時のヒロインの福田さんは、見た目イジりを止める理由は、単純に客が笑わなくなったからだという。だとすれば当然の判断だ。

 

では、なぜ客は笑わなくなったのだろうか?

そこにはやはり女性の見た目を(特に男性が)笑うことに対する差別意識があるからだろう。

笑わせているのではなく、笑われているのだとしたら、それは嘲(あざけ)りや蔑視となり、差別にもなる。

議論の波は男性芸人にも派生して、ブス、チビ、デブ、ハゲはイジっていいのかという問題へと広がっていく。

 

この風潮に当該芸人達がやりづらさを吐露するシーンも散見される。

見た目のおもしろさは笑いの武器であり、

少し前まで人気女性芸人はそれが主たる武器だったのも事実だ。

大事な商売道具を奪われるのは死活問題である。

当然だが、彼女らは本心はどうあれ、見た目をイジられることを許容するし、自虐ネタとして自ら笑いにすることもある。

他人にイジられる笑いと自虐の笑い。今回はこれがテーマ。

 

見た目イジりが女性差別につながるなら、女性芸人という圧倒的少数の仕事を守るためにこの差別を放置するわけにはいかない。

ただ、見た目のコンプレックスを笑いに変える芸人は、同じ悩みをもつ多くの人々の希望でもあったのではないだろうか

コンプレックスがあっても明るく振る舞い、人々に笑いと勇気を与えてくれる存在。芸人にはそういう社会的役割もある。

その象徴といえるのが渡辺直美さんだ。

彼女のビヨンセ芸は、見た目の笑いである。だから海外でも通用する。

上手なダンスと迫真の表情が笑いを生むが、ビヨンセに似た人が同じことをやっても笑いにはならない。

コロッケさんを手本とする顔芸など、そのおもしろさが彼女をスターにして、そのライフスタイルさえも評価されるようになった。

彼女はコンプレックスを魅力に変えてしまったわけだが、そこには笑いという要素が不可欠だった

 

見た目を笑ってはいけないということは、渡辺直美ビヨンセを笑ってはいけないという道につながる。それは渡辺直美のおもしろさを否定することでもある。

だが、「人の見た目を笑うな」は、「美しものに惹かれるな」と同じくらい不可能なのではないだろうか。

もし見た目を笑うことを全面禁止するのであれば、変顔でも笑ってはいけないことになる。

 

たしかに「デブ」などの、ある種の見た目が笑いの対象になるかどうかは社会的意識によって変化するだろう。

なので渡辺直美がまったくおもしろくないどころか不愉快になる未来は来るかもしれない(差別的だと思われる可能性もある)。現に過去のテレビ番組に嫌悪感を抱くこともある。それは仕方がないことだ。

 

では見た目イジリのうちで何が許されるのか?

つまりどこまでが笑いで、どこからが差別なのか。

可能性の一つはやはり、本人が認めているかどうか

イジメもセクハラも、やられた方が被害意識をもつことで成立する。

つまり本人の気持ち次第。

 

すると加害者になりたくないので、周囲の人間は慎重になる。

危機意識のない年配者ばかりが加害者になる。

その反面、自虐は本人が許容しているので、原則的に加害者にはなりえない。

『翔んで埼玉』も、埼玉の人間がつくり、埼玉の人間が許容しているからよいのであって、他県の人間がつくったら問題になっただろう。

 

自虐ならよし。だが、笑いの世界はそう簡単ではない。

自虐で笑いが起きたとき、ツッコミ(による笑いの増幅)がないことに違和感を感じてしまう。

芸人同士の信頼関係があれば、ツッコミは成立する。

しかし、客の全てがそれを理解できるわけではない。

それどころか、信頼に基づく「瞬間のフレーズ」を切り取って一般化し、「〇〇がこんなことを言った」といって、加害者にしようとしてしまう。

悪意をもった人に限らず、時代があらゆる人に監視者の見方を根付かせてしまっている要素もある。

被害者がいないのに加害者が生まれる。自分の武器を使って誰かが不特定多数を傷つけたので、その罪を問われるのだ。そうして笑いは差別に変化する。

 

笑いは弱くなるが、イジリや差別の加害者になることを防ぐためには、思いついても言葉にしないのが安全である。

見た目がおもしろくて笑ってしまうのと、それを言葉にすることには大きな違いがある。少なくとも今は、笑ってしまうだけで差別の加害者と言われることはない(何で笑ったかなんていくらでもごまかせるし)。

あくまで発言や積極的行為が問題なのだ。

ブサイクな人に告白されたとき、例え本心であっても「ブサイクだから付き合いたくありません」とは言わないし、言えないだろう。

そういうマナーというか、気遣いは既に存在している。相手を傷つけないために、見た目について思ってしまっても言葉にしてはいけない。

 

渡辺直美さんのビヨンセ芸がアメリカでウケているのは「デブで手足の短いアジア人がビヨンセのマネをしている」からかもしれないが、そんなふうに言葉にはしてはいけないし、言語化した瞬間に笑いは差別に急変し、笑えなくなる。

見た目を笑っても、何も言葉にするべきではない。

褒め言葉のつもりでも、簡単に差別になってしまうのだ。

 

差別をなくすことが、ひとときの笑いより優先されるのは当然だ。

差別しないために、黙して笑いを捨てる。

それは、社会のために芸人が支払う税金のようなものだ。

ただし、この税制が正しいとは限らない。

次回は、差別の聖域「自虐」と笑いについてさらに掘り下げていく。

東京03飯塚さんのツッコミがテレビ向きでない理由

東京03第二十一回単独公演「人間味風」

@The Garden Hall

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tokyo03.22th

 

前日にアメトーーク!で「東京03飯塚大好き芸人」が放送され、追い風状態での追加公演2日目。

「お笑い芸人」とか「キングオブコント王者」とか、そういう毒素が抜けて、どこにでもいる普通のおじさんになってきた3人だからこそできる、どこにもない特別なライブ。

その特別さは、年を追うごとに増している。

 

今更いうことでもないが、東京03のコントはとことん日常のなかにあり、

誰もが経験したことのある「気まずさ」や「違和感」を抽出・拡大し、笑いに昇華してくれるという、カタルシスに魅力がある。

日々のストレスを笑いに変換してくれる装置としてのコント。

お笑いライブらしからぬ、働き盛りの大人たちが客の大半を占める理由もそこにあるだろう。

この先、自分に同じことが起きても、心の中で飯塚さんのようにニヤニヤすればいい。

今回は、「失敗をイジろうとすると論点をずらしてくる奴」が典型だろうか。

 

アメトーーク!でも語られていたように、飯塚さんのツッコミはスロースタート方式になっていて、ツッコムべき人間をかなりの時間、放置する。

ここがリアルとコントの分岐点。観る側にとっては「もしも」のはじまり。

放置された男の暴走が臨界点に達したときに、観客は救いを求める。そして、飯塚が動き出す。

 

ここで一線級のツッコミ芸人ならば、状況を的確にとらえたセンスある言葉で切り裂くだろう。

しかし飯塚さんはそうではない。「満を持して」放つ第一声は、ふつうなのだ。

東京03のコントの世界観において、ワードセンスという「非日常」は不要なのだ。

(かっこつけたり、センスあることを言うと、飯塚さんにイジられる)

誰もが言いそうな言葉だからこそ、共感とカタルシスが生まれる。

そして、誰もが言いそうな言葉から、最も笑いにつながるチョイスができるのが、飯塚さんの能力なのだ。

たしかに、その日常言語には、センスツッコミほどの一発の斬れ味はない。

だが、一発の斬れ味は、物語の流れを止める。

一つのボケや一つのツッコミは物語の要素でしかない。

観せたいのはコントという物語である。

 

個人的には「関東ツッコミNo.1」的な触れ込みはやめたほうがいいと思う。

飯塚さんのツッコミは、そこだけ切り取ったら、ふつう。コントを全体からみたら、最高。

コントという文脈がないと、彼のすごさはわからない。点ではなく、線の笑い。

だからこそ、一発の斬れ味や、短時間での笑いを求められるテレビにはどうしても合わない。

ライブの主な客層である働き盛りの大人達は、視聴率をもっている世代ではない。

一本目のネタは、テレビや賞レースで求めらる「笑いの数」や「つかみの早さ」の真逆をいく挑発にさえ思えた。

 

テレビに出ずに単独公演だけに集中できるのは、理想的な環境だ。

東京03があえてそれをやっているかはわからないが、小林賢太郎はあえてやっている。

このかたちでしかできない表現や密度の濃さがあると思い知らされる。

笑いの主戦場はテレビではなく舞台なのだと、突きつけられた。

バカリズムとアドラーと渋谷の若者たち

バカリズムライブ「image」

 

草月ホール

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渋谷の街で騒ぎ立てる若者たちを見て、あなたはどう思うだろうか。

愚かな奴らだと蔑む気持ちがある一方で、

わずかでも「ちょっとうらやましい」という感覚が、ないと言えるか?

自分も本当は東京のど真ん中でオシャレな人たちと楽しく騒ぎたい、

でもそんなことできないし、そんなことは軽率だからしたくない。

軽率? 本当にそうか? 

もしかして劣等感をごまかしているだけじゃないのか?

 

そんなふうに自問自答していたが、

最近はある仮説を下に、考え方を変えた。

仮説「渋谷で騒いでる奴らは、地方出身者だけだ」

 

私は東京生まれ東京育ちで、渋谷にもよく行く。

「渋谷」という街に憧れているからではなく、用があるから行く。

一方、地方出身者は東京や渋谷への憧れが強い。

だからこそ、憧れの街「渋谷」で騒いでいる人々にも憧れや劣等感を抱く。

そして「今度は自分が」と、ハラハラしながら上京し、ハラハラしながら渋谷で騒ぐ。

そして少しずつ渋谷に慣れていき、日本の中心にいることに誇りをもち、

その小慣れた姿が、「渋谷の街で騒ぐ若者」として、誰かに憧れられる。その連鎖。

つまり、渋谷は田舎者が田舎者にマウントを取るための場なのだ。

東京の人間には関係ない。憧れや劣等感など抱く理由がない。勝手にやっていればいい。

 

さて、そしてバカリズムである。

こんなこと言いたくないが、あくまで事実として、彼は「田舎者のチビ」だ。

成績も悪いし、他にも劣等感につながる様々な要素がある。

しかしこの田舎者のチビは、今や本人の思惑通り、天才、多才という冠が付いて回る。

もはやバカリズムの悪口を言うことは許されない雰囲気だし、実際、悪口の挟みどころもない。

ただ、彼が努力型でないのは確かだが(もちろん努力はしているだろうが)、

天才かどうかは疑問である。

バカリズムのイマジネーションは、持って生まれた才能というよりも、劣等感との戦いのなかで獲得したと考える方が妥当ではないか。

「田舎者のチビ」がナメられないために、モテるために、野球をやり、喧嘩をやり、笑いをやる。

自分の能力を信じて、悪態をつきながら刃を磨く不遇の時代を経て、今や天才と呼ばれる優越を得た。

そんなバカリズムに、「都会者の長身」である私は憧れを抱く。劣等感も抱く。

 

劣等感は生の原動力であるとアドラーは言う。

性衝動(モテたい)は生の原動力であるとフロイトは言う。

劣等感の克服という意味では、バカリズムも渋谷の若者も同じだ。

しかしバカリズムの笑いには、もはや劣等感や承認欲求が見えない。

あるのかもしれないが、バカリズム本人の自己受容と、観る側の信頼によって、見えないところまで背景化している。

渋谷の若者たちの見え透いた自己顕示欲は無視していいが、

他者ではなく、自分の理想を追い求めるバカリズムは無視できない。

 

いじり尽くされたはずのおとぎ話で鮮やかに新しい笑いをつくってみせる。

我々の足元に転がっていたものを、バカリズムは拾って、遊んで、自慢する。

あの妖しい笑顔のなかにある暴力性。

その恐怖と刺激をまともに受けることで、共同体全体が高みに向かっていくのだ。

ひとまず「天才」に屈服しよう。

 

 

「コントのブラックホール」ザ・ギース単独ライブレポート

ザ・ギース第15回単独ライブ「スプリングボンボン」

 

恵比寿エコー劇場

 

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コント師と呼ばれる人は多いけれど、ザ・ギースは少し違う。

彼らの特徴はコントに対するメタ認知の能力、

つまり「コントをすること」に対する俯瞰の視点を持っていることと、

さらにその視点が多様であること。

 

どういう経緯でそうなったのか詳しくはわからないが、

コントをやり続けることで、コントの枠が崩壊していったのではなかろうか。

重くなりすぎた星が、「重さ」そのものになり、周囲の全てを取り込んでいくように、

ザ・ギースのコントはコントという形を破壊し、その周辺さえも無尽蔵に取り込んでいく。

コントのブラックホール

かっこいいようで、ダサいネーミング。。。

そのダサさも、東京のコント師のオシャレさをあまり感じない彼らにはちょうどいいということで。いちおう旬なワードだし。。。

 

メタ認知的なネタ

ライブ冒頭の、ライブ開始前の楽屋のコント

厄払いのアドリブギャグコント

お笑い好きの女性をいじるコント

本気で練習した音楽のコント

 

コントをする人、コントを観る人、即興、練習の影。

どれも舞台上のその瞬間だけではない、別のリアルな時空を想定させる。

虚構と現実の間をつなぐ、隠れた現実。

これがあると、コントは人に響き、人を変えられる。

これが今回の学び。

 

そんななかでも、

コント師っぽい、秀逸な設定のコントや、

フリップネタっぽいコント、

キャラクターコントなども、素直におもしろい。

 

テレビというマス空間では、観る側の多様性がジャマをしてメタ認知の作用は弱いのかもしれない。

だから直球のコントで戦っているのだろう。

もちろんそれで結果が出ればいいが、画面越しに観ている人々に緊張を与えるようなテレビサイズメタ認知コントをつくれることが、彼らの最終形態なのではと、私は思うし、勝手に期待してしまう。

 

「芸人にあって役者にないもの」 小林賢太郎作 舞台『カジャラ第四回公演』レポート

 

 

「コント集団カジャラ 第四回公演 怪獣たちの宴」

 

作・演出:小林賢太郎

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暗がりの中、杖をつく老人らしきシルエットが現れる。

そのシルエットは次第に杖を、巧みに、いや滑稽に操り、コント再開前にすでに笑いを生む。

マイムのクオリティからして、それは小林賢太郎だと思う。

しかし、明転すると、その老人はなだぎ武だった。第四回公演の特徴的な瞬間。

 

いままでカジャラでは、ラーメンズの相方である片桐仁を除いて、テレビの最前線で活躍した経験のある芸人が登場することはなかった。

そこにきて今回、なだぎ武がメンバーに入っていることに驚いた。

まさか大阪公演の客寄せではないだろうから、関西色の強い芸人さんを呼ぶことの違和感もあった。

 

カジャラの演者の多くは役者である。

うまく言語化できないのだが、コントにおいて、役者と芸人には違いがある。

演技という嘘があるから?

いや、コントも演技であって、漫才とは違い、素で話しているわけではない。

漫才だって一方は台本を読んでいるのだから素ではない。

・・・わからない。

でも、笑いの強さという決定的な違いがあるのは事実。

もしかしたら自分だけかもしれないけど。。。

 

といっても役者がコントをやることを否定するわけではない。

それが良い方に動くこともある。その最たる例がこのカジャラなのである。

小林賢太郎という、肩書き不明な人間の作品世界をつくるには、

やはり役者主体で、ついでにTVではなく舞台であるのがいい。

 

そこにきての、なだぎ武である。

そして冒頭の老人のシーン。

やはり実力のある芸人さんである。

声も通るし、言われてみれば動きだけで笑いがとれる人でもある。

アドリブらしきところも多々あったし。ことごとくウケていた。

そして、

舞台上のなだぎ武は、小林賢太郎と対等だった。

小林賢太郎の世界観を崩すことなく、一人で圧倒的な笑いをつくれる、小林賢太郎以外の存在。

小林賢太郎を食ってしまうかもしれない勢いさえある。

いままでにない緊張感。

デュランを思わせるキャラに真っ向から応じる小林賢太郎も、実に楽しそうだった。

 

そうか、何かをしでかすかもしれないという緊張感。

これは芸人にあって役者にはないのかもしれない。

役者のアドリブにはない、破壊への期待

別に実際は破壊しないんだけど、期待があるだけでおもしろくなる。

 

今回はそういう意味でも、笑いが多めのコントだった。

前回の石川啄木のように、純粋な演劇っぽいものはなかった。

それでも小林賢太郎のコントには、やはり考えさせるものがある。

対象を笑いで包むのではなく、対象それ自体をおもしろくする技術は、

私にとって理想なのである。

 

#カジャラ#小林賢太郎#なたぎ武

「不老不死は素敵じゃないか」 舞台『伯爵のおるすばん』レポート

『伯爵のおるすばん』

脚本:中嶋康太(Mrs. fictions)

 

 

不老不死もののSFによくある、「主人公の孤独と死ねない苦しみ」というのが好きではない。

たしかに孤独も苦しみもあるだろうが、それを不老不死者の絶対の運命と決めつけてしまうのは、可死者の傲慢であり、それを言いたいがための御都合主義的な設定が目に余るのだ。

 

この作品は、主人公の不老不死が話の軸ではあるが、テーマはそこにない。

彼にもたしかに孤独と苦しみはあるが、愛情と喜びがそれを凌駕していく。

愛する者は死ぬが、その経験が自分を変え、また新たに愛する者へとつながっていく。

それは悲劇的で意味のないことだろうか。

 

3時間弱の長尺ではあるが、5つの時代を描くのだから必然ではある。

前半はコメディーパート。

いわばシチュエーションコントを何本かやるといったところ。

コントとしての脚本はよくできていて、客もよく笑っていた。

プロのコント師に演じさせたら十分笑いの場で戦えるだけの筆力だ。

 

このさんざん笑わせた余韻が、後半のシリアスパートに説得力をもたせる。

笑いっていうのは、笑いなしの真面目な話をしっかり聴かせる力があるんだと思った。

この気づきが今回の最大の収穫だろうか。

 

後半は、孤独と絶望、そしてそこからの回復。

時間があれば、死せる人間が期待するような悲劇など乗り越えられる。

ただしそれを可能にしたのは、彼を愛する死せる者たちである。

ここで、あまりにも不老不死を美化しすぎるのも偏見だから言っておくが、

 

不老不死は素敵だ。ただしイケメンに限る

 

この主人公はとにかくモテる。努力せずともモテる。

本人が回顧するように、彼には特別な才能も、財産も、華やかな経歴もない。

ただし、イケメンで、素直な性格だ。

素直なイケメンだから、人に愛され、結果、不老不死である自分を肯定できたのだろう。

才能も財産もなく、ひねくれたブサイクだったら、不老不死は絶望だ。

すみません。言いすぎました。。。

でも、不老不死なんてその程度のことだ。永遠は絶望の有無を決めないのだ。

 

フィナーレ。世界の終わりの打ち上げ。

神々しい光に包まれて、全ての登場人物が飲み会に参加する。

これは幻想だが、美しい人生がそのまま具現化されたとき、

観るものは感動とともに、不老不死も悪くないなと思ったのではないだろうか。

 

笑いとシリアスのバランスをうまく転回させながら、最終的に圧倒的な感動を描く。

どこを切っても考えさせる内容だし、5つの時代のコントラストも鮮やか。

すごく完成度の高い作品だった。