「孤独か他人か、どっちも地獄」 舞台『出口なし』レポート
『出口なし』
脚本:J.P. サルトル
演出:小川絵梨子
「地獄とは他人のことである」
サルトルの有名な言葉が舞台作品として表現されている。
この言葉のインパクトが強すぎて、「人間って怖いよね」という皮肉を表現しているように思われがちだが、そうではない。
そのへんはサルトル哲学のつっこんだところなので詳しくはやめておこう。
地獄にいたら抜け出したいと思うのが普通だが、彼ら3人は地獄から抜け出そうとしなかった。
地獄にいることを望んでいた。他人という地獄に。
3人の相性は最悪。
多部(エステル)は直情的に男の体温を求める。
段田(ガルサン)は虚栄心から承認を求める。
大竹(イネス)は美への服従を求める。
一方を求め、一方を拒否する三角関係。
多部未華子のインタビューからは、この脚本の理解が全然できていないという旨の発言がある。若く美しく、愚かなエステルはそのほうがいい。役者は脚本の全てを理解せずに演じた方がいいこともあるんだと、そう思わせる演技だった。
ただ、大人2人には、サルトルの言葉をそのまま語るだけの理解が求められている。
2人がそこまでいっているのか、私にはよくわからないが、観るものに問いを投げかけるに十分な演技をしていたのはたしかだ。
彼らは一つの部屋で、バラバラであることができなかった。
それほど他人のまなざしは強力に、応答を求めてくる。
他人がそこにいるだけで、私は私らしくあらねばならないと思ってしまう。勝手に。
応答しなければならない。うまくできないのに。だから地獄。
だったら独りになればいいのに、それをしない。
そう、他人も地獄だが、孤独も地獄だから。
永遠にそこにいる他者は気を狂わせる。
永遠の孤独は自分という存在を失わせる。
他人という地獄、自由という刑罰。
それは与えられたものであると同時に、望まれるものでもあるということだろう。