せららばあどの随想録

エンターテインメントを哲学する

「歴史の闇を笑う罪」 平田オリザ「ヤルタ会談」レポート

ヤルタ会談』(平田オリザ演劇展 vol.6)

 

作・演出:平田オリザ

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コミュ力が問われる最たる場は、外交だろう。特に戦時中。

ヤルタ会談は、終戦間際のソ連アメリカ、イギリスによる首脳会談であり、共通の敵をもつまったく立場の違う国同士の調整の場であった。

 

冒頭、スターリン役の中年女性が物憂げに2人を待つ長尺のシーン。緊張感。

 

そこにルーズベルトが現れる。

派手なチアガール衣装とカラフルなお菓子を抱えたぽっちゃり女子だ。

甲高い声の挨拶に、スターリンもおばちゃん全開の大声で応じる。

緊張が崩れ、これが喜劇であるということが一瞬で了解される。

そこにチャーチル役の白スーツの巨漢が続き、やかましい近所の井戸端会議のようなやりとりが進んでいく。

 

世界の命運を握る人々の会談がこんな軽率なはずがない。たしかにそうだ。

しかし、真摯に話すには、各々が抱える問題がありすぎる。

そもそも社会主義と資本主義の決定的な対立があり、領土問題でも、人道問題でも、互いに許容できないことが多くある。

今は仲間でも、いつ殺しあうかわからない相手。

それでも笑って握手しなければいけないのが外交である。

はたから見れば狂気の沙汰だ。

それでも精神状態を保つためには、軽率にもなるだろう。

 

歴史の深刻なる暗部が、コミカルな台詞に転換する。

ユダヤ人の虐殺も、反乱分子の粛清も、近所の奥さんの悪口を言うような軽妙さに押されて、笑うことを余儀なくされる。

だが、笑ってしまったら最後、これは罠なのだ。

 

会談2日目

会話の中心は、ドイツから日本に移る。

アウシュビッツ満州になり、ポーランドが北海道に代わったが、

言っていることは同じである。

聞き分けのない息子にお尻ぺんぺんをしてやるぞといった軽妙さで、

負けを認めない日本に原爆を投下すると言うルーズベルト

 

遠いヨーロッパの話だから、ギリギリ笑いとして許容された喜劇が、

絶対に笑ってはいけない自国の闇でそのまま再現される。

 

もちろん、笑おうとして笑うんじゃない。ただ、笑ってしまうだけだ。

さきほどの笑いの感触が秩序を壊し、絶対に笑ってはいけない話ですらも笑わせてしまう。

 

笑えない人もいただろう。ただ、私は笑ってしまった。

とてつもない罪悪感とともに。

この罪に報いなければいけないと思わされた。

この短い喜劇は、私に罪を帰せ、報いるための、巧妙な罠だった。

ラーメン二郎吉祥寺店のせいで新しい店に行けなくなった話

ラーメン二郎といえば、その見た目のインパクトのほかに、「呪文」と呼ばれる独特の注文方法も有名だ。

いくつかの店舗に行ったが、この呪文はおおよそ、ラーメン二郎での共通言語として通用している。

しかし、私が知るなかでは、今はなき吉祥寺店は、呪文こそ通用するものの、注文の仕方がもっとも難解であり、はじめての人がノーミスで注文することは不可能であった。

 

簡単に説明すると、店主が「たのんでない人いいよ」といったら、サイズの「大」か「小」だけを伝える。

その後、「たのんだ人いいよ」といわれたら、手前の座席から順に、事前に頼んだサイズに加え、チャーシューのサイズと、例の呪文を言うという流れなのだが、

誰が既に頼んで誰がまだなのか、頼んだ人のなかで自分は何番目なのかというのを、客が理解する必要がある。つまり、全員が場の状態を把握しなければならないのだ。

 

そして、店主は見た目が怖い。しゃべりもぶっきらぼうで怖い。

隣にいる小さい老婆も攻撃魔法とか使えそうだ。

(ただし店主も他の店員もみんなやさしくて、怒ることはないと、後にわかる)

ラーメン作りは店主1人で行うため、2時間待ちは当たり前で、行列のなかやっと店内に入れても、この状況把握という緊張状態を強いられる。

 

そして、何も知らない初心者が「こぶたラーメン1つ」と言うと、

店全体がキーンと静まり返る。店のリズムを壊す闖入者に、みなが会話を止める。

誰も注意はしない。だって知らないから仕方がない。

店主が間をおいて、独り言のように「小ね…」と修正する。

 

最悪の場合、初心者は自分が頼む前に「たのんだ人いいよ」の流れに乗ってしまい、

呪文を唱えてラーメンにありつくのだが、これは自分より前の人のを横取りすることになってしまう。

これはすごくキーンとなる。

取り返しのつかない場合があるし、サイズの問題で2人以上に迷惑をかけることもある。

 

このキーンを、多感な学生時代に何度も(キーンをつくる一員として)傍観してきた。あまりにも複雑すぎるオペレーションと、キーンという静寂の反響。

すっかり恐怖を植え付けられた。ああはなりたくないと、心から願った。

 

こうして、私は、知らない店に入ることができなくなった。

念のため、キーンとなったからといって、トラブルは起きないし、店主もやさしく対応してくれたということは言っておきたい。

知らないところで注文を失敗することは悪いことではないし、特に吉祥寺店では必然ですらある。

なのに、キーンが怖くてできない。

和を乱すことへの恐れ、失敗することへの恐れ、知らないことへの恐れ。

複雑なオペレーションの讃岐うどんの店に、言葉もわからずに入ってくる外国人を見ていると、自分の恐れが、いかに日本人的かを思い知らされる。

複雑さを恐れてラーメン二郎吉祥寺店に行けなかったという人がいたら、それは絶対にもったいないことだ(ちなみに、現在は同じ場所あるラーメン店で再現度の高いものが味わえる。しかも食券で!)。

 

失敗したっていいじゃないか。誠意さえあれば、きっと大丈夫。

そろそろこの呪縛を解き放とうと思った。そんな決意の話。

 

 

 

 

 

 

 

「孤独か他人か、どっちも地獄」 舞台『出口なし』レポート

『出口なし』

脚本:J.P. サルトル

演出:小川絵梨子

出演:大竹しのぶ多部未華子段田安則

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「地獄とは他人のことである」

サルトルの有名な言葉が舞台作品として表現されている。

この言葉のインパクトが強すぎて、「人間って怖いよね」という皮肉を表現しているように思われがちだが、そうではない。

そのへんはサルトル哲学のつっこんだところなので詳しくはやめておこう。

 

地獄にいたら抜け出したいと思うのが普通だが、彼ら3人は地獄から抜け出そうとしなかった。

地獄にいることを望んでいた。他人という地獄に。

 

3人の相性は最悪。

多部(エステル)は直情的に男の体温を求める。

段田(ガルサン)は虚栄心から承認を求める。

大竹(イネス)は美への服従を求める。

一方を求め、一方を拒否する三角関係。

 

多部未華子のインタビューからは、この脚本の理解が全然できていないという旨の発言がある。若く美しく、愚かなエステルはそのほうがいい。役者は脚本の全てを理解せずに演じた方がいいこともあるんだと、そう思わせる演技だった。

 

ただ、大人2人には、サルトルの言葉をそのまま語るだけの理解が求められている。

2人がそこまでいっているのか、私にはよくわからないが、観るものに問いを投げかけるに十分な演技をしていたのはたしかだ。

 

彼らは一つの部屋で、バラバラであることができなかった。

それほど他人のまなざしは強力に、応答を求めてくる。

他人がそこにいるだけで、私は私らしくあらねばならないと思ってしまう。勝手に。

応答しなければならない。うまくできないのに。だから地獄。

だったら独りになればいいのに、それをしない。

そう、他人も地獄だが、孤独も地獄だから。

 

永遠にそこにいる他者は気を狂わせる。

永遠の孤独は自分という存在を失わせる。

 

他人という地獄、自由という刑罰。

それは与えられたものであると同時に、望まれるものでもあるということだろう。

 

ロシアW杯は日本サッカー史の走馬灯だった

歴史を塗り替えることはできなかった。

 

ワールドカップ8年周期説はまた更新され、

初出場の1998年から2018年まで、挫折と躍進を交互に繰り返している。

日本代表の活躍に誰もが驚いたが、私は同時に、思い出すことも多かった。

この大会はただの繰り返しではない。

日本サッカーの歴史の集大成であり、新しい歴史だ。

 

1998年に得た経験は、ピッチに立ったこと。

スター選手との真剣勝負に浮足立っていた。

点差以上に彼らとの差があった。

それでも中田英寿は世界に羽ばたいた。

 

2002年、一生に一度あるかどうかの自国開催。

初の勝ち点、勝利、グループリーグ進出。

サッカーに熱狂する国民がいた。

決して強くないトルコに負けて、共催の韓国は3位になった。

 

2006年、ゴールデンエイジにかつてない期待を抱いた。

初戦の逆転負けで、全てが狂った。

絶対的な存在の中田を怖れ、海外組と国内組に分裂があった。

ブラジル戦で「早く終わってくれ」と思うほどの地獄の時を過ごした。

 

2010年、期待の低さを裏切り、躍進した。

日本らしさを捨てて、現実的な守備戦術を選んだ。

前回大会の不協和の教訓から、チームの結束が強固になった。

疲労困憊のパラグアイ戦では、凡戦の末にPKで敗北した。

 

2014年、「世界を驚かす準備ができた」過去最高のチーム

「自分たちのサッカー」の徹底

完璧な準備と、失意の惨敗

 8年前の繰り返し。

 

そして2018年は、やはり8年前に似ていた。いや、それ以上に期待は薄かった。

2014年の悲劇から、日本サッカーはJリーグ開幕以降はじめて停滞した。

代表も、選手個々の成果も、4年前より状況は悪化していた。

 

しかし、今回の日本代表は、歴史を繰り返すのではなく、歴史から学んでいた。

最近の本田圭佑のじゃんけんの比喩を聞いて、4年前の悲劇の理由がやっとわかった気がする。

「自分たちのサッカー」にこだわりすぎて、相手を考えずに自分のスタイルを貫こうとした。

しかし、ワールドカップは国の威信をかけた真剣勝負であり、相手国分析の徹底ぶりも他の試合とは違う。PKキッカーの統計分析などがその好例だ。

4年前、日本のサッカーは試合前から長所も短所も筒抜けだった。

そして、短所を放置して勝てるほど、圧倒的な強さはなかった。

自分たちのサッカーを貫いて、どんな敵をも粉砕するには、組織だけでは限界がある。

 

2010年の自分らしさを捨てたスタイルと、2014年の自分らしさを貫いたスタイルという苦しい歴史が、今回の、徹底したスカウティングに基づく戦略と組織のサッカーを生んだ。これこそが「日本らしいサッカー」ではないだろうか。

 

・短期決戦、総力戦のW杯では、チームの亀裂は致命傷と知っていたから、チームの結束は硬かった。

・挫折を知る選手たちの、上を目指す意識がチーム内に浸透した。

・6回目の出場で、初戦の緊張感を知っているから、開始早々の相手の動きの悪さを突くことができた。

・スター選手に怯えないための実績も、点を取られても追いつけるタフな精神力も身につけていた。

ドーハの悲劇マイアミの奇跡があったから、不必要な危険をおかさないで試合を終わらせる冷静な判断力をもつことができた。

・2度のベスト16敗退の経験が、先を見越した戦略と選手のコンディション調整の重要性を教え、グループリーグ突破では満足できなハングリーさを与えてくれた。

 

こうして、日本サッカーの歴史の上に、2018年日本は躍進し、世界に賞賛された。

しかし、優勝候補チームの必死の猛攻に耐え抜くための経験がなかった。

フィジカルに屈するという根本的な課題も再発した。

まだまだ、日本サッカーは若く、経験不足だということだ。

結果としては悔しすぎる足踏みだが、日本人監督の下で、日本の歴史を感じさせるサッカーをしてくれた選手たちは、この国に喜びと希望をもたらしてくれた。

 

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